前書き
今日は昔考えた「墓参りをする理由」について書いてみようと思います。
「お百度参り」ではありません。「墓参り」です。
だいぶ前の話なんですがなんでお墓参りするんだろうって言う事について考えてみたことがあります。自分なりの答えを出しました。基本的には前提としてあの世がある、霊の世界があると言う前提のもとに話をします。
私が今住んでいるところからお墓参りをするときに必要なことは、往復約3時間と線香やお供えの花といったものになります。もちろん墓参りに行ける健康な体と言うのも必要です。
結論
結論としてはあの世の人から見たときに「これらのものを自分のために使ってくれたと言う感謝の気持ちが現れることで成仏できる。」とそういうふうに判断しました。
すでに成仏しているのではないのかとか、成仏することによって何が変わるかと言うと、まだよくわからないですが、私を見守ってくれる、子孫見守ることができるようになる、わずかながらも力になることができる。それは私が夢を見たり何かに気付いたりあるいは誰かに出会うようなそういうことを起こすことができるようになるのではないか、とそんなふうに思います。
昔「ゴースト、ニューヨークの恋人」と言う映画を見る機会がありました。暴漢に襲われた男性が彼女を守るために様々なことをして、最後は彼女を守ることで光り輝く世界へと行くわけですけれども、映画の主人公のようなことができるようになるんじゃないかという風に思います。
そしてまた私たちはお墓参りをすることをで、例えば墓参りする人が許せなかった故人を許すことができたり、自分を産んでくれたことを感謝したり、あるいはそのこれから自分がやろうとすることを誓ったりする相手として見ることができます。
お墓参りの在り方
そういったものが生きる力になるということを考えたときに、単に墓参りの行動としてやるのではなく、むしろ心を込める事の方が重要ではないかとそのように感じるわけです。
そのように考えると「墓参り代行」ということの是非が問われたことがありますが、私自身はそのお墓参りをしたいと言う気持ちの表れの方が大切であり、実際に代行でお墓参りをしたとしても、お金は使いますので、「お墓に行けなくて申し訳ない」という気持ちがあれば、あまり大きな違いは無いのではないかと思うのです。もちろん面倒だからではだめです。
本当に成仏するのか
一方で自分に行孫がいない人跡継ぎ子供がいない状態でお墓参りをする人がいなくなった状態で亡くなった人もたくさんいるはずです。そうした場合にこのようにして自分のために時間やお金を使ってくれる人がいないと言う事は成仏できないのかと言うことになるのですが、決してそんな事はないと思います。
基本的に善悪は生きているときの行いで判断されます。だから墓参りをする人がいなかったとしても成仏できないと言うわけでもないと思いますが、墓参りをしてくれる人がいるほうが、その人の生前の行いがわかるので、より高い位置にいて、より多くの人を見守ることができる、そういうふうに考えることにしています。
私たちはどう生きるか
私たちの生き方の本質は「自分の心の成長であり魂の成長である」と言う観点で見なければなりません。生きているうちにどれほど人間として良い心を持ちながら良い振る舞いをすることができるか、そのことを通して自分の魂がより高いところに行くことが望まれている、とそういうふうに考えることができるんです。
お坊さんについて考えるときに修行することが目的ではありませんし、執行して悟りを得ると言うことも実はまだ手段の段階でしかないと思います。その悟りを持って「修行をしていない私たち」にその悟りの内容を通して私たちの生き方がより仏に近い、そういう生き方、霊性を高めるような、魂を高めるような生き方にすることを伝えることが大切だと思います。
そのように考えるとこの記事が皆さんの魂の成長に役立っていただければ幸いです。